1995年 アウシュビッツに消えていた子供たちの遺作展




 チェコスロバキア、プラハの郊外に、オーストリア皇帝ヨゼフ2世が、
その母マリア・テレジン女帝の栄誉をたたえて建設した要塞都市がありました。
1941年ここに収容所が作られ、その日から1945年の5月に収容所が解放
されるまで、ドイツ名のテレージエンシュタットと呼ばれ、チェコスロバキアを
はじめ西ヨーロッパ諸国のユダヤ人達を、
アウシュビッツへ送り込む中継地の役目を果たしていたのです。
 この収容所にはナチスによって送り込まれた15000人の子供たちがいました。
飢えと寒さ、親から離れた淋しさ、死の不安の中で、粗末な紙切れと小さな折れた
クレヨンで、子供たちは絵を描き詩を書きました。次々とアウシュビッツへの移送が
進む中でも、絵は描き続けられました。
しかし、生きて平和の日を迎えたのは、わずか100人でした。残された絵の数は
4000枚に及びます。その一枚一枚が子供たちがこの世に生きた証なのです。
 一枚一枚の絵から、私たちを忘れないで欲しいとの声が聞こえるようで、
生きること、平和の尊さが激しく激しく迫って来ました。



  収容所内での教育は禁じられています。
見つかれば処刑されるにもかかわらず、絶望の中にいる子供たちに喜びと希望を与えるために絵を、詩を教えました。そして、作品には必ず名前を書かせました。それが子供たちがこの世に生きた唯一の証となるからです。
 子供たちに絵を描かせたのはフリードゥル・ディッカーを初めとする何人かの教育者達。彼らもまた子供たちと同じようにアウシュビッツへ送られ帰らぬ人となったのでした。
 幼児教育を学ぶ者たちにとって、教育者はどうあるべきかを教えられました。

 テレジンのこの絵を初めて日本に紹介されたのは、野村路子さんです。野村さんにお出会いし、平和の道具の活動のことや、大学祭で絵の展示会をしたいとお話すると大変喜んでくださいました。
 ご自身が開催された時に用いた絵画は埼玉の平和資料館に寄贈されたそうで、貸していただけるよう働きかけた下さいました。
 春に青春キップで埼玉の資料館を訪ね、本番前にはレンタルトラックで運びました。

【参 考】
絵画記録 テレジン強制収容所
         (ホルプ出版社)
15000人のアンネフランク
       野村路子著(径書房) 

詩「わたしはひとりで行きたい」

私はひとりで行きたい
どこか別の よい人たちの住むところへ
どこか 知らないところへ
だれも人を殺したり しないところへ
夢に見ていた その目的地に
行きつくことが できるかもしれない
おおぜい もしかしたら1000人もの人が
行きつくことが できるかもしれない

        アレナ・シンコバー(生存)


 1993年 アンネ・フランク展     
1994年 ヤヌシュ・コルチャック展
 1996年 ホロコーストとその証人展 
 1997年 ハンナ・セネシュ展