レジスタンス(抵抗運動)


 ユダヤ人は迫害当初、ナチスの圧制に武力で抵抗はしなかった。抵抗運動が表面化したのは、彼らを待ちうけているのが差別や迫害だけでなく、着々と実行されている皆殺し計画であることに気づいた時だった。 1942年、約30万人のユダヤ人が貨車に乗せられ、ワルシャワのゲットー(ユダヤ人居住区)からトレブリンカの絶滅収容所に移送された。人々は絶望の中で蜂起を決意した。ゲットーの住民達を指揮するようになっていたユダヤ人戦闘組織は次のような宣言文を出した。
 

        東方レジスタンスの兵士
   「ユダヤ人諸君。いよいよ立ち上がるときが来た。ただ一人のユダヤ人も貨車に乗るな。敵に立ち向かえない者は身を隠して抵抗しようではないか。合い言葉は一つ。人間らしく死んでいこう。」
 ゲットーと強制収容所と地下組織で、彼らは秘かに抵抗の計画を立て始めた。非ユダヤ人からほとんど援助を受けることができなかったし、裏切られたこともしばしばだった。運動に加わった者の多くは計画が実行される前に見つけだされ拷問やガス室で殺された。それでも彼らは、勝つ見込みのない戦いと知りつつ戦った。絶望的な状況においてなお人間は勇気を持って生きることが出来ることを立派に示したのだ。
 

ハンナとレジスタンスとの関わり

 地下組織の中には主に二つのグループがあった。ひとつはポーランドの社会主義革命の中で、ユダヤ人の自由を獲得しようと考えていた社会主義同盟のグループ、そしてもうひとつがハンナが属した、パレスチナにやがてはユダヤ人の国を建てようと考えていたシオニストのグループであった。そして全てのグループで「ユダヤ人戦闘組織」を結成することになった。
 パレスチナでは、ユダヤ人達がナチスに対するレジスタンスに参加しようとしていた。パレスチナはヨーロッパの絶滅収容所からは遠く離れていたが、そこに住むユダヤ人の大半はヨーロッパからの移住者であり、殺されたのは彼らの家族だった。
 イギリス軍に加わったパレスチナのユダヤ人は、1943年、ユダヤ人を敵占領地に送り込んでレジスタンスを組織し、ユダヤ人を救助するという計画を立て、イギリスにその計画の実行を迫った。イギリスは少人数のユダヤ人がパラシュートでドイツ軍占領地帯に降下することに同意し、降下後イギリス軍の諜報員として、同時にナチスに包囲されているユダヤ人コミュニティーと連絡をとる密使として働くことになるはずであった。32名のパレスチナ人からなるパラシュート部隊の中にいた唯一の女性隊員であったハンナは、当時23歳で自ら望んでこの任務についたのである。
 ハンナはレジスタンスの英雄として、ユダヤ人の心に息づいているのである。


ハンナ・セネシュ展    ハンナとキブツ