シオニズム運動


 シオニズムとはイスラエルの首都エルサレムにある『シオンの丘』に由来するユダヤ人による民族解放運動の意味し、『シオンの丘』とは古来からイスラエルやユダヤ民族を象徴する言葉である。
 約2千年前(紀元70年)、ローマ軍のユダヤ国家征服によってユダヤ人は全世界に流浪の民(ディアスポラ)となった。その後彼らは中世ヨーロッパでの十字軍による虐殺を初め、中世スペイン末期の異端審問、そして現代のホロコーストなど数え切れない迫害、差別の苦難に満ちた歴史を歩むことになる。その中で、『シオン』の地へ帰還し、ユダヤ民族の復興と存続をはかろうというシオニズム運動が起きるのである。

 苦難の道を歩むユダヤ人たちは、民族の救済は『神』のご意志によると考える傾向があったが、19世紀の中頃、ユダヤ人解放を人間の意志と力で実現すべしと思想が芽生え、その実現のため『シオンの地』、パレスチナへの入植、国家建設を提唱する人々が現れた。 しかし、この考えは1870年代までは、注目されず、ユダヤ人社会にほとんど影響を与えなかった。当時は、移住地の社会で他民族と同化することによって平等の権利を得て、周囲に受け入れられるという楽観論が支配的だったからである。

しかし、楽観論とは反対に、ロシア各地で発生した1880年代の大ポグロム(ユダヤ人大虐殺)をはじめ、ユダヤ人解放の夢はおろか、平等の権利は与えられず、以前として言われなき中傷を受け彼らは殺された。しだいに同化思想をあげてユダヤ人社会から離れ、ユダヤ教の戒律を守ることを拒否してしていた人々もシナゴーグ(ユダヤ教会)へ帰ってきた。このような伝統への回帰と精神上の復活だけでなく、父祖の地パレスチナに国家建設の運動が、やがて具体的に動き始めるのである。
 その実現に政治的に拍車をかけたのが、テオドル・ヘルツェル(1860-1904)である。彼は1897年8月、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開き、これより政治シオニズムが運動を展開することとなった。


  テオドール・ヘルツェル
 ヘルツェルはその日の日記に、
「わたしは今日、ユダヤ国家の基礎を置いた。
そう言えば世界は笑うだろう。しかし5年後、いや50年後、世界はその実現を見るであろう。」

と、預言的な言葉を記したが、驚くべきことに50年と9ヶ月後の1948年5月にイスラエル国家は独立したのである。


ハンナ・セネシュ展    ハンナとレジスタンス